世界の占いの歴史

占いはギリシャや中国を中心として始まり、紀元前4年頃ではアレキサンダー大王がギリシャを統一したことで西洋諸国各地の文明・文化と融合したといわれています。17世紀頃、バビロニアからギリシャやエジプト・ローマ帝国を通じてイギリスに伝わったことで、占いは大きく発展しました。また、占星術は今から4000年以上前に古代メソポタミア文明のバビロニア地方が起源だと考えられています。

日本の占いの歴史

日本では、古代から占いが文化や政治において重要な役割を果たしてきました。古墳時代前からは、「太占」と呼ばれる方法が行われていました。これは、動物の骨や亀の甲を焼いて占うものであり、当時の重要な手法の一つでした。邪馬台国の女王卑弥呼も、占いを通じて国を治めていたと伝えられています。さらに、天武天皇が壬申の乱で勝利を収めた際には、「式盤」という道具を用いた占いが利用されたという記録も残っています。

古代の太占は、中国から伝わった鹿の肩甲骨を焼いてヒビの状態で占う手法でした。平安時代になると、日本独自の陰陽師による占いが登場し、中国の陰陽五行をベースに発展しました。中世期には、軍師たちが易学や天文学を駆使して戦の吉凶を占うことが一般的であり、戦略的な決定に重要な影響を与えました。江戸時代に入ると、人相占いや夢占いなどが一般民衆にも広まり、日常生活における決断の手助けとして活用されるようになりました。

これらの歴史を通じて、占いは政治的な決定から日常生活の選択に至るまで、多岐にわたる場面で影響を与えてきた文化的実践であると言えます。

また、日本のカレンダーの歴史も古代から始まります。古代の日本では、太陽暦や農耕暦が使用されていました。太陽暦は太陽の動きを基準に日々の暦を定めるものであり、農耕暦は農作業に適した時期を示すための暦です。これらの暦は、自然の周期や天文現象を観察して作られました。7世紀に入ると、中国からの文化や知識が伝わる中で、太陰太陽暦が導入されました。これ以降、日本では太陽暦や太陰太陽暦が主に使用されてきました。

易(えき)は、中国の古代哲学である「易経」に基づく占術で、日本でも古くからその影響を受けてきました。易は、自然の流れや人間関係、未来の予測などを知るために用いられ、占いの一形態として広く行われてきました。日本のカレンダーと易は、歴史的に深く結びついています。カレンダーは時間を刻み、季節や行事を規定するものであり、易はその時の状況や流れを読み解くための手段として重要な役割を果たしてきました。両者は日本の文化や生活において、深く根付いた存在として今日まで続いています。